目次 [表示]
- 大分県の史跡・臼杵城を観光しよう!
- かつて臼杵城は海に浮かぶ島だった!
- 臼杵城の歴史
- 大友宗麟が城の前身を築く
- 近世には城主が変わり現在の姿の礎が完成
- 関ヶ原の戦いののち稲葉氏の居城に
- 西南戦争で落城
- 廃藩後に城の一部が取り壊される
- 臼杵城の見どころ①:現存する建物【3選】
- 現存する建物①:畳櫓
- 現存する建物②:石垣
- 現存する建物③:卯寅口門脇櫓
- 臼杵城の見どころ②:施設【3選】
- 見どころ施設①:フランキ砲
- 見どころ施設②臼杵公園の桜
- 見どころ施設③:旧臼杵藩主稲葉家下屋敷
- 臼杵城周辺の観光情報【3選】
- 周辺の観光スポット①:臼杵市観光交流プラザ
- 周辺の観光スポット②:野上弥生子文学記念館
- 周辺の観光スポット③:小手川商店
- 歴史ある臼杵城に行ってみよう!
大分県の史跡・臼杵城を観光しよう!
臼杵城は九州地方の大分県臼杵市にある戦国時代に築かれた城です。別名として丹生城、巨亀城、金亀城、亀城などと呼ばれることもあります。
臼杵城は大分県の指定史跡となっており、天守閣のあった場所は公園として整備されています。東九州自動車道の臼杵ICから車で10分程度とアクセスも良好です。24時間営業なため営業時間を気にせず訪れられます!
かつて臼杵城は海に浮かぶ島だった!
臼杵城はかつて三方を海に囲まれた海城でした。海城とは海運と防衛の二面を持つ城郭の形式のことを指します。もとは臼杵湾の丹生島であり、築城主である大友宗麟が島を城にしたため丹生島城と呼ばれることもあります。廃藩後に周りの海は埋め立てられているため、海城としての姿を見ることはできません。
臼杵城の歴史
臼杵城は時に戦いの舞台にもなり、多くの歴史がある城です。戦国時代のキリシタン大名・大友宗麟(義鎮)により前身となる丹生島城が築かれたのち、さまざまな城主の手によって修築され現代の臼杵城の姿になりました。
大友宗麟が城の前身を築く
臼杵城の築城主は大友宗麟です。大友宗麟は戦国時代のキリシタン大名であり、当時行われていた南蛮貿易にも積極的でした。臼杵城の城下町はキリシタンが多く住み、南蛮貿易により栄えたため当時の大きな経済都市でした。1586年の島津勢と戦いではポルトガルの大砲で応戦しています。
近世には城主が変わり現在の姿の礎が完成
大友宗麟が1587年に亡くなり1593年大友義統が改易されると、臼杵城には福原長堯が入城します。福原長堯が6年後に本拠を移した後は太田一吉が入城しました。太田一吉によって臼杵城は改修され、現在の臼杵城の原形が完成しました。
関ヶ原の戦いののち稲葉氏の居城に
1600年の関ヶ原の戦いで太田一吉は降伏し、代わって美濃の稲葉貞通が城主となります。稲葉貞通から2代にわたって臼杵城の天守閣を含む大規模な修築を行い、現在の姿になりました。稲葉氏は明治維新まで15代続いて臼杵城の城主となっています。
西南戦争で落城
臼杵城は西南戦争の舞台にもなりました。1877年の西南戦争で臼杵の武士たちは勤皇臼杵隊を結成し薩摩軍に抵抗しますが、落城し占領されてしまいます。しかし新政府軍の援護を受け、8日後になんとか臼杵城を奪還します。
廃藩後に城の一部が取り壊される
廃藩後には残念ながら城の一部の建物が取り壊されてしまいます。取り壊される前の天守閣は3重4階、高さは天守閣の土台から6間1尺ありました。この時に周囲の海も埋め立てられています。取り壊し後は臼杵公園として整備されており、いくつかの現存する当時の建物を見られます。
出典:photoAC