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空港名にもなった「ダニエル・イノウエ」ってどんな人?功績をご紹介!

空港名にもなった「ダニエル・イノウエ」ってどんな人?功績をご紹介!

ダニエル・イノウエはハワイのために活躍したハワイ生まれの日系二世です。ホノルルの空港名『ダニエル・K・イノウエ国際空港』の由来になってしまったほどの活躍とはどのようなものだったのでしょうか?ダニエル・イノウエの功績をご紹介します。

目次 [表示]

ダニエル・イノウエの政界での活躍

Photo byasteinfest

戦争での活躍が認められてたくさんの勲章を授与されてアメリカに帰ったダニエル・イノウエは政治の道を志しました。イタリアでの戦いで右腕を失ってしまい、夢であった医学への道が断たれてしまったからです。ダニエル・イノウエは再びハワイ大学にて政治学を学び、1950年大学を卒業しました。

アメリカで初めての日系人議員

ハワイ議会議員から下院議員へ

ダニエル・イノウエは1954年ハワイ議会議員になった後、1959年、日系人で初めて連邦下院議員に当選しました。

初登院の際、議長の『右手を挙手して宣誓の言葉を続けてください』という要請にダニエル・イノウエは左手をあげました。若きアメリカ兵として必死に戦い、失った右手の代わりに左手をあげたことで、日系人であることへの偏見が消え去ったことが議事録に記されています。

上院議員としての活躍

下院議員をつとめた後、ダニエル・イノウエは上院議員となり、日系人初の上下両院議員になりました。上院ではウォーターゲート事件、イラン・コントラ事件の調査に携わり、2010年からは上院議長代行(大統領の権限継承者第3位の地位)に就くなど、議員としての活躍は目覚ましいものでした。

故郷ハワイへの貢献

Photo byopapaty

ダニエル・イノウエの故郷ハワイへの貢献も忘れてはならないものです。ハワイでの経済や雇用、インフラの整備、福祉、自然保護、砂糖やパイナップルなどの産業、母校であるハワイ大学への支援、軍事産業など、あらゆる方面からハワイの発展に力を注ぎました。地元からの信頼も厚く9期にわたって議員を務めました。

『I will not be a rubber stamp for any president.』

議員時代のダニエルの名言のひとつに『I will not be a rubber stamp for any president.』(大統領のイエスマンにはなりません)というものがあります。

ダニエルは大統領にとても近い位置にいながらも、rubber stamp=大統領の考えを深く考えずに承認するイエスマンにはならないという強い意志をもった政治家でした。

日本との関係

戦後の日本との関係

ダニエル・イノウエは日米関係においても日系人ならではの視点を持っていました。

慰安婦問題について日本の謝罪を求めた『アメリカ合衆国下院121号決議』については日本の歴代総理大臣や衆議院決議による謝罪を認め、新たに謝罪は求めないという考えでした。ダニエルの母が広島出身であることから、オバマ大統領の広島訪問についても評価しました。

日米を繋ぐ架け橋として

ダニエル・イノウエは晩年まで日本とアメリカの架け橋であり続けました。東日本大震災後には被災地を訪問したり、ダニエルの父の故郷である九州豪雨の際にも声明を出したりと日本との繋がりは深く、2011年には日本政府からも『桐花大綬章』が贈られています。

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