ルワンダ虐殺とは?
ルワンダ虐殺は、1994年にルワンダ国内で発生した大量虐殺のことです。ルワンダにはツチ族とフツ族が共存して暮らしていましたが、民族間の対立により紛争が起こりました。20世紀最大の悲劇と言われ、当時ルワンダの人口は約730万人でしたが、全国民の約10~20%が殺害されました。
ルワンダ虐殺が起きた理由は?
ルワンダ虐殺が起きた理由は複雑な要因が絡み合っています。ルワンダ虐殺は1994年に発生しましたが、以前からルワンダでは紛争が起こっていました。植民地支配によって民族を区別されたことから歪が生じ、大きな問題へと発展していきます。
ベルギーの植民地支配によって起こった民族間の争い
ルワンダは第一次世界大戦以降ベルギーの植民地でした。フツ族は農耕、ツチ族は酪農に励み上手く共存していたにも関わらず、ベルギーは異なる民族として区別したのです。
長身で鼻が高いツチ族は、ヨーロッパ人に似て優れていると認識され、ツチ族が社会的・経済的に優遇されます。結果的に格差が生まれ、民族間で対立する原因が作り出されました。
フツ族系政権の誕生により迫害されたツチ族
ベルギーは国際的に植民地支配への反発が高まると、フツ族を支援するようになり立場は逆転しました。1962年にルワンダはベルギーから独立し、フツ族のグレゴワ・カイバンダが大統領に選ばれます。
フツ族が政権につくと、今までの恨みからツチ族への迫害事件が頻発しました。約2万人ものツチ族が殺害され、隣国のウガンダなどへ避難した人数は約20万人にのぼります。
ルワンダ愛国戦線の発足
1973年、ルワンダでは国内情勢の悪化でクーデターが起こり、フツ族のシュベナール・ハビャリマナ新大統領が誕生します。国外逃亡しているツチ族は、ウガンダで「ルワンダ愛国戦線」を発足し、ハビャリマナ政権に対して反発運動を強めました。
国連も介入できなかったルワンダ内戦
1990~1993年、ルワンダ愛国戦線はルワンダ北部を占拠し、フツ系政権と内戦が勃発します。1993年、国際社会の協力もあり両者はアルーシャ協定を結び和平合意しました。
しかし停戦監視・平和維持を行う国際連合ルワンダ支援団の元に、ツチ族虐殺計画に関する密告が届きます。司令官は国連に制圧を提案しましたが、支援団に与えられた権限を越えるとして却下されました。
最大のきっかけとなった大統領への撃墜事件
1994年4月6日、シュベナール・ハビャリマナ大統領は、搭乗する専用機がミサイルにより襲撃され死亡しました。首謀者は不明ですが、ルワンダ愛国戦線か、過激派フツによる攻撃ではないかと推測されています。襲撃事件がきっかけとなりルワンダ虐殺が勃発しました。