高野山ってどんなところ?
高野山は、和歌山県の標高800メートルを超える山地です。真言密教の聖地で、平安時代の816年(弘仁7年)に、弘法大師空海によって開かれました。
高野山には、空海が今も生きていて私たちを見守っている、という信仰があります。開かれてから1200年以上が経ち、高野山は京都、大阪、堺などの周辺からだけではなく、世界各地から人々が宗教を超えて訪れる、観光地となりました。
高野山へ続くおもな街道は3つ
高野山へ続くおもな街道は、町石道(ちょういしみち)、黒河道(くろこみち)、京大坂道(きょうおおさかみち)の3つです。高野山へ行き来する人が増えるにつれ、周辺の京都、大阪、堺などから参詣のための街道ができ、街道沿いは旅館や茶屋が並び、宿場町として栄えたのです。
町石道(ちょういしみち)
町石道は、南海高野線の九度山駅近くから根本大塔まで、約22キロメートルの距離の街道です。
空海が行き来したことで知られています。高野山は明治時代まで、女性が立ち入ることのできない女人禁制(にょにんきんせい)の場所でした。空海の母親は高野山のふもとで暮らしており、空海は町石道を通って母親を訪ねていたのです。
黒河道(くろこみち)
黒河道は、南海高野線の橋本駅近くから奥之院まで、約20キロメートルの距離の街道です。豊臣秀吉が1594年(文禄3年)に高野山に参詣した帰りに、黒河道を馬で駆け下りたという記録が、史料に残されています。
京大坂道(きょうおおさかみち)
京大坂道は、南海高野線の学文路(かむろ)駅近くから女人堂まで、約9キロメートルの距離の街道です。
江戸時代には、高野山を訪れる人の8割に利用されました。周辺の京都、大阪、堺から京大坂道へアクセスしやすかったからです。京都からの東高野街道、大阪市からの中高野街道と下高野街道、堺からの西高野街道の4つの街道が合流して京大坂道となり、高野山へ続いているのです。
出典:ライター撮影