屯田兵はどんな暮らしだった?
家屋は江戸仕様
屯田兵に用意された家屋は江戸仕様の風通しがよい高床式で、北海道の冬を越すには寒すぎました。当初は暖房と煙突も付ける案が検討されたそうですが、予算の都合で暖房設備は付けなかったそうです。
家屋は1家族に1戸与えられ、間取りは畳の間が2部屋あって居間・土間・便所がある江戸の武家住宅の標準規格で、当時の平民の住居と比べると広めでした。
生計は自給自足
入植4年目以降の屯田兵は完全に自給自足するしかなく、本州と環境のまるで違う北海道では苦労も尋常ではなかったため、4年目で故郷に帰る家族も相次ぎました。
とくに士族は苦労したものの武士の誇りで鼓舞していたと伝わり、平民が中心になってからは規律に「武士と同じ誇りと責任感を持つように」という旨が書かれています。
時間や道具は管理されていた
屯田兵の生活には細かな規律が多く、日課や道具もすべて上官により管理されていました。屯田兵の1日はラッパの音で時間を管理されており、村を離れる場合には上官に申告が必要です。武具・農具は正しく手入れをするよう決められ、週1回上官が各戸をたずねて家の中や周囲の様子とあわせて監査していました。
入植4年目以降は出稼ぎも
屯田兵は入植から4年目以降になると食糧の手当てが終わってしまい、耕作だけでは食べていけず、道内で働く場所を見つけて出稼ぎに行く人が一定数いました。屯田兵として雇われた人々は鉄道関連の土木工事や、冬山造材・炭鉱・漁場などでも働いたと伝わります。
屯田兵の歴史
制度の創設まで
屯田兵として北海道に士族を移住させる案は幕末に坂本龍馬が考えていたとされ、明治政府ではたびたび議題に上がっています。西郷隆盛が薩摩士族を使う案を提案しますが実現前に辞任し、開拓使長官の黒田清隆が東北の士族を使う案を出し、部下の永山武四郎らが申し立て採用されます。
1874年に法令「屯田兵例則」が定められ、開拓使の下部に「屯田事務局」が作られました。
入植の進展
時期 | 現在の市町村 | ||
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札幌周辺 | 1870~80年代 | 札幌市・江別市 | |
重要港湾 | 1880年代後半 | 根室市・室蘭市・厚岸町 | |
内陸 | 空知・上川 | 1890年代前半 | 滝川市・美唄市・旭川市・当麻町 |
雨竜原野 | 1890年代後半 | 深川市・秩父別町 | |
北部 | 北見 | 1890年代後半 | 北見市・端野町 |
オホーツク海岸 | 上湧別町 | ||
天塩川流域 | 剣淵町・士別市 |
屯田兵による入植は開拓使の本庁が置かれた札幌周辺から始まり、対ロシア防衛に重要な道東の港に広がり、農作地を求めて内陸地域に進み、最終的には北部へ進みました。
前期の入植は開拓使本庁の警備をかため、ロシアへの防衛力を高めることに主眼を置いています。道政の中心が道庁になると屯田兵の役割の重点を農業開拓に移し、中央道路の整備にしたがって内陸への入植を進めました。
制度の廃止まで
屯田兵制度は「第七師団」という陸軍の北海道支部が作られ、道内にも徴兵令が出されたのちに廃止されました。道内で徴兵できるほど人口が増えたことと、開拓が進んで大規模に入植できる土地がなくなったことで屯田兵が不要になったためです。
1900(明治33)年には屯田兵の募集が打ち切られ、1904年に現役兵が0人になったのを機に条例が廃止されました。
出典:写真AC