屯田兵が組織された理由
①ロシアに備えた防衛軍を置くため
屯田兵が組織された1つ目の理由は南下してくるロシアに備え、北海道を前線基地として防衛軍を置くためです。
明治初期のロシアと日本は国境を取り決めておらず、当時のロシアは樺太に足場を築き北海道へもたびたび上陸しています。明治政府の支配は北海道の西南部までで、北海道の大部分や千島列島、樺太には届いていませんでした。
②北海道の警備と開拓の拠点をつくるため
屯田兵が組織された2つ目の理由は、北海道内の警備と開拓をするときの拠点を作り、開拓を進めるためです。
北海道の開拓と警備は外国に対する防衛力を高め、近代化に必要な財源を生む補給庫として北海道を開発するためで、明治政府にとって急務でした。明治初期の北海道には「遠い」「流刑地」など悪い印象があって入植もなかなか進まず、国が主導して集団入植する働き手を集めます。
③失業した士族に職を与えるため
屯田兵が組織された3つ目の理由は、路頭に迷っていた大量の士族に職を与えるためでした。
士族は明治維新により特権・勤め先を失い、農商工業へ転職しても経験がなくてうまくいかず、路頭に迷う人が続発します。政府は戊辰戦争で負けた東北諸藩の士族をとくに注視し、暴動を防ぐ狙いもあってまず東北士族を中心に募集しました。
屯田兵はどんな制度?
構成員は前期が士族で後期は平民
屯田兵の構成員は前期と後期で異なり、前期の構成員は困窮士族だけでしたが、後期の構成員の中心は平民に替わりました。
初めの10年間は困窮士族のなかでも道内や東北諸藩の士族だけでしたが、応募者が底をつき募集枠を全国の士族に広げます。後期に入る1890年には農業開拓に力を入れるために平民も募集枠に加えますが、一貫して「既婚で家族で移住できること」が条件でした。
おもな任務は軍事訓練と農作業
屯田兵のおもな任務は軍事訓練と開拓・耕作であり、戦争が起こると兵隊として出兵しました。
戸主の日ごろの任務は軍事訓練が大半を占め、開拓・耕作の中心を担ったのは家族です。屯田兵の時代には西南戦争、日清・日露戦争があり、屯田兵は西南戦争と日露戦争の戦地に出ています。不定期には憲兵としての警備巡回や災害救助があり、試験的な生産活動として養蚕・酪農などもありました。
初期は国からの手当てあり
屯田兵は、北海道へ移住し村に定着するまでに必要な費用や道具については国から手当てがあり、民間の移住より恵まれた環境ではありました。手当は支度や渡航にかかる費用・現地での土地・家屋・生活道具・農具・種子・武具などで、入植から3年間は食糧としての米と食費も付きます。
出典:イラストAC