建国の父の上陸がもたらした歴史
シンガポールは、1819年の東インド会社のラッフルズの上陸以降、世界有数の経済大国となる成り立ちの歴史が始まります。シンガポールは、海峡の入口にある立地の良さや天然の良港といった戦略的価値を持っていることが着目されます。新たな港が建設され、島名もシンガプーラから英語名のシンガポールに変わりました。
1824年になると、シンガポールはイギリスの植民地となります。
無関税の自由港
ラッフルズは、シンガポールの港を無関税で貿易が可能な、自由港にする政策を推し進めました。魅力的な自由港政策により、中国、東南アジア、インドなどの国から多くの労働者がシンガポールへ集まりました。
わずか数年の間に、もともと150人程度であった島の人口は1万人を超え、急速に発展をし、今の多民族国家としての成り立ちが始まりました。自由貿易の伝統は今も続いています。
華僑の活躍
中国から来た華僑と呼ばれた人々は、各国からの移民の中でも特に目覚ましい活躍がありました。1826年、シンガポールはイギリス海峡植民地にされた後、他のイギリス植民地との貿易でさらに発展をします。
マラッカで採れたスズ、ゴムを世界市場に売る新部門として華僑が中心に動き、大きな役割を果たしました。華僑はシンガポールの中で大きな集団を形成し、中国文化が浸透しました。
植民地としての歴史
シンガポールを含むマレー半島の在来住民と移民に自治は認められず、奴隷状態に置かれていました。移民により経済が発展をする一方で、過酷な植民地支配が行われました。特にマレー人に対する圧政は酷く、一方的な搾取など悪辣な支配が行われました。
イギリスの横暴な振る舞いに対する地元の人々の反感は高まる一方で、独立運動や反英活動が行われましたが、徹底的に弾圧をされました。
日本軍による占領の歴史
シンガポールは、太平洋戦争が始まるとまもなく日本により占領をされます。イギリスの支配下にあった時よりも、さらに辛い圧政の時代の始まりでした。当時の日本軍が掲げていた「大東亜共和圏」の政策のもとで、シンガポールの人々は約3年半もの間、日本により厳しい統治をされます。
しかし、イギリス・日本による圧政は、シンガポールの人々に自分たちの国家を作ろうとする強い意志を持たせるきっかけになるのです。
昭南島時代
シンガポールは日本により「昭南島」という日本名に変えられました。日中戦争の最中であり、反日行動を恐れた日本軍による華僑への粛清は苛烈なもので、反日でないにも関わらず、多くの一般人が虐殺をされた「華僑虐殺事件」が発生しました。
貨幣や日本語教育などの日本化政策も行われ、ラッフルズの上陸以降行われた自由港政策の貿易は停滞し、地元住民は経済的混乱に苦しめられました。
許す、しかし決して忘れない
「許す、しかし決して忘れない」日本軍による占領時代に対するシンガポールの人々のスローガンです。
近年、シンガポールの人々から激しい反日感情を向けられることはあまりないようですが、日本軍による残虐な統治時代がシンガポールに大きな被害感情を残したことは事実です。ラッフルズ広場には日本軍による占領時代の犠牲者を慰霊するための慰霊碑「血債の塔」が建てられています。
出典:photoAC